努力は報われるのか

「努力は必ず報われる」という言葉をほとんどの人は聞いたことがあるだろう。漫画やドラマ、学習系のCMなどでよく聞く言葉だし、落ち込んでいる友人に励ましの言葉として言ったことがある人もいるのではないだろうか。

 

しかし、世の中に「必ず」ということがあるのだろうか。努力をしたが夢を叶えることができなかった人もいる。では、その人たちは努力が足りなかったのか。成功した人と、失敗した人の違いは何なのか。それを今回は考えてみたいと思う。

 

努力の目的

たいていの人は何か自分の決めた目標や夢を達成するために努力をするのであろう。ということは、努力とは過程であり、夢を叶えるための手段である。「終わり良ければ総て良し」という言葉があるように政治などのように過程を重視するもの以外はその途中のことはあまり重要ではないのだと思う。

 

「努力することに意味がある」と言う人もいるだろう。たしかにそのような面もあるだろう。しかし、努力とはあくまでも過程であり、手段である結果が伴わない努力になんの意味があるのだろうか。

 

努力に意味がないと言っているのではない。結果を出してこそが努力であるはずなのに、最近は努力信仰と言ってもいいくらい努力が重要視され過ぎている気がする。

 

努力教

なぜ、ここまで努力が重要視されているのだろうか。その理由の一つに日本人特有の生真面目さがあるのだと思う。

 

日本人は昔から努力が大好きである。コツコツ頑張って成功した人には惜しげもなく賛辞を与えるが、一発でドカンと成功した人には「卑しい成り上り者」などの酷評が与えられる。

 

その最たる例が二宮金次郎ではないか。貧しいながらコツコツと努力し、学問をすることで成功した二宮金次郎のようなタイプが好きだから全国の学校に銅像を建てて、子供たちの見本としたのだろう。もし、二宮金次郎が努力などせず宝くじで一発当てたのだったらまさしく「貧しい成り上り者」の評価が与えられただろう。

 

真面目であることが悪いのではない。真面目であるがゆえに努力を結果より重視してしまうと努力することが目的になってしまう。努力をするだけで皆が認めてくれるとは限らない。二宮金次郎も努力もしたが、結果を出したから皆に称えられているのである。

 

努力を重視するあまり努力することが目的になると、結果が二の次になる。そうなると、なにも成し遂げられないひとになってしまう。なにも成し遂げられない人に構ってあげられるほど世間に余裕はない。人間だれしも誰かに認めてもらいたいものである。誰にも認めてもらえないと人は卑屈になる。映画『ランボー』のように誰からも認めてもらえないあまり数百人の警官とドンパチしたいと思う人はあまりいないだろう。

 

努力と才能

努力とは過程であると言ったが過程であれば飛ばしたいと思うのが人の常ではないだろうか。では、努力という過程を飛ばせるものとはなんだろうか。それは才能である。

 

才能なんて関係ないという人がいるが誰が何と言おうと才能は結果に大いに関係がある。才能がすべてであるとは言わないが才能のある人とない人との間には大きな差が存在する。

 

努力はみんなする。しかし、才能はその努力を何倍にもしてくれる。同じ努力をしても成功する人と失敗してしまう人がいるのはこの才能の有る無しによるのではないか。才能がすべてを決めるわけではないが、結果に大きく関わっている。

 

しかし、才能がないからと言ってあきらめる必要はない。才能がなければ努力をすればいい。才能はあれば有利だが成功の絶対条件ではない。才能だって努力と同じで報われるかは誰にもわからない。

 

なぜ努力は報われないのか

よほど楽観的な人でもない限り、努力が必ず報われると信じている人はいないだろう。では、なぜ努力が報われない時があるのだろうか。

 

まず努力の量が足りないということが考えられるだろう。自分では十分に努力したと思っていても他の人から見れば大した努力ではないということがある。人は往々にして自分に甘いものである。

 

ほかにも人の力ではどうしようもない運というものが存在する。試験当日に体調が悪くなってしまったり、大会中にケガをしてしまったりなどはある程度は対策ができたとしても確実に防ぐことはできない。これは才能も関係ないし、努力が足りなかったわけでもない。運を運命の女神の気まぐれにしたくなる人の気持ちもわからないでもない。

 

まとめ

努力について考えてみたが私の感想は努力とはギャンブルなのではないかということだ。かえってくるかわからないが、かえってくると信じて日々努力する。「努力は必ず報われる」と信じてもろくなことはない。ギャンブルの場に絶対報われると言っている人がいたらその人はおそらく詐欺師だろう。

 

 

夢について

 誰しも子供時代にプロ野球選手やサッカー選手、パティシエやお花屋さんなどの夢を思い描いたことがあるだろう。しかし、大人になるとそんなことなど忘れてしまう人がほとんどだ。

 

 では夢とは何なのか。人生におけるどのような役割をはたしていて、どのようなメリットがあるのか。そして、なぜ忘れてしまうのか。今回はこれらのことを考えてみたいと思う。

 

夢とは何か?

 そもそも夢とは何なのであろうか。子供のころに思い描く夢は職業についてであることが多いが、夢とは職業のことだけなのか。

 

 結論から言うと私は夢とは人生の燃料のようなものだと思う。夢があるから人は頑張ることができるという言葉があるが、本当にその通りだと思う。

 

 夢といっても人生の最終目標のようなものでなくてもいい。夢と言うのが大仰過ぎるなら目標や楽しみtぴってもいい。10年後にマイホームを買いたいというのもいいし、月末にいつもより高いワインを飲みたいというのも立派な夢である。もし、何もやりたいことがなかったら何のために働き、何のために生きているのかわからなくなってしまう。

 

 夢を持つことで日々を頑張る気力が出て、つらいことの多い毎日を乗り越えられるのだと思う。そう考えると夢見るのは希望に満ちた若者だけのものではなく、いい年の大人も胸をときめかせて夢見てもいいのではないだろうか。

 

なぜ夢を忘れてしまうのか

  夢のすばらしさをいくつか述べてきたが、大人になると子供のころに思い描いた夢を忘れてしまうのはなぜだろう。私はいくつかの理由があるのではないかと思う。

 

 まず、根本的に人は継続するのは苦手だということだ。夏休みの計算ドリルを1日1ページやろうと思ったまま、8月31日を迎えた人は決して私1人ではないはずだ。夢を見ることも同じである。言われずともわかるだろうが、夢を実現させるには大変な労力が必要である。夢を見続けるのもただではできないのである。

 

 2つ目の理由としては物の裏側も見えてしまうからではないだろうか。裏側と言ってもその業界の闇の部分ということではない。子供のころはアイドルといえば大歓声を浴び、華やかなステージに立っているだけの存在だったろう。しかし、アイドルとはステージに立つだけが仕事ではない。

 

 私はアイドルに詳しくはないが、きっと厳しい歌やダンスの練習に体系維持などをし、倍率が何十倍もあるオーディションを乗り越え、アイドルになってからも私などは想像もつかない努力を裏でしているのだろう。

 

 大人になると子供のころには思いもつかなかった、このような面も見えてしまうのである。これらの現実を見て自分には無理だと思ってしまうのである。自分の限界を知ることは悪いことではない。しかし、挑戦もせずに自分の限界を決めつけてしまうのも考え物である。

 

まとめ

 今回は夢について考えてみたが確かに夢を見ることは素晴らしい。しかし、夢は自分の身を滅ぼすものにもなり得る。憧れの職業にやっとなれたのに自分の創造と違って辞めてしまったということも聞く。もしかすると、夢とは叶えた時ではなく見ている時が一番幸せなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

生きるとは?

私の考える「生きる」

前回の記事で哲学において私はどう生きるかが重要だと言ったが、今回は私が生きるとはどういうものだと考えているのか述べようと思う。

 

どう生きてはいけないか

 人は何のために生きているのか。誰しも一度は考えたことがあるだろう。私も考えたことがある。自分の人生に絶望しているわけではないし、何か大きな悩みがあるわけでもない。しかし、自分の存在理由や生きる目的というものを知りたいと思うのは人間の自然な欲望なのではないだろうか。「人は善く生きるべきだ」というソクラテスの言葉は知ってはいるが「善く」とは何であろうか。人助けや共同体の利益になることなど社会的によいとされている行為はある。しかし、私はそれらの行為が生きる目的になるとはどうしても思えない。人助けに費やすだけの人生などなんとむなしいことか。やはり人生は自分のためであるべきだ。どう生きるべきかという問いに対する万人に当てはまる答えを私は持っていないがこれだけは確信を持って言える。私たちは我慢するために生きているのではないということだ。

 善く生きる

ソクラテスの善く生きるという言葉を私は「自分に忠実であれ」と解釈する。「なんだそんなこと、当たり前じゃないか」と思う人もいるだろうが、自分に忠実であることは意外に難しい。まず、それには並々ならぬ意志の力が必要である。どんな状況でも自分の意志を貫ける人はそうそういない。たいていの人は何かと理由をつけてあきらめてしまうのではないだろうか。かく言う私も日課のサイクリングを風が強いだの疲れが残っているだの何かと理由をつけてサボる意志の力などかけらもない人の一人である。自らの夢をかなえるために悪魔の子と呼ばれ、全イタリアから憎悪されたチェーザレ・ボルジアと手を結んだレオナルド・ダ・ヴィンチを見習わなければならない。私たちを縛るものはたくさんある。それは社会の常識だったり、自分自身であるかもしれない。自分のやりたいことをやるというのも意外と難しいものなのだ。だが、なにも悪魔の子と手を結べと言っているのではない。ほんの少しでもいいから現代の社会を支配する倫理観や常識から自由であるだけでいいのだ。それだけで「どう生きるのか」という疑問が少しでもわかりやすくなるだろう。

まとめ

「どう生きるのか」という問いは人類が存在する限り続いていくだろう。その答えは人の数だけあるだろう。私個人としては生きることとは自分に忠実であることだと思っている。このシンプルだが、困難な答えに沿って生きていけるかはわからない。だが、少しでも意識してみるだけで人生観というものは大きく変わると思う。

 

現代人は今こそ哲学をするべき

 
  • 哲学とは?
  • 多くの人は哲学という言葉を聞いたことがあるだろう。しかし、多くの場合は「哲学」という単語ではなくテレビや雑誌のインタビューなどでカリスマ経営者と呼ばれる人たちが語る「経営哲学」や有名人たちの言う「人生哲学」という哲学+αの熟語としてだろう。「経営哲学」や「人生哲学」というと何やらその人の経営のモットーや人生の指針というようなイメージがあるが、「哲学」という言葉にはどのような意味があるのだろうか。辞書で「哲学」と調べると物事の根源を理性的に探ることを目的とした学問とある。小難しい言葉が並んでいてわかりにくいが、要するに「生きるとは何か」とか「善悪とは何だろう」といあった感じで当たり前に存在しているものを改めて考えてみるという学問である。哲学にルールはない。大学のお偉い肩書を持った教授がプラトンデカルトの本や海外の権威あるとされている人の著作を読んで「~~の著作から読み解く~~についての考察」という論文を書いたとしてもそれも哲学であるし、あなたが学校や仕事で疲れて、ベッドに倒れこんで「私ってなんで生きているんだろう」と考えるのも哲学である。
  • 哲学のはじまり
  •  おおまかに哲学というものを説明したがそのはじまりについて知るのもいいと思う。ここら辺は知らないといけないものでもないため、読み飛ばしてもらっても大丈夫。
  •  哲学の歴史を知る上で最も重要なのは何といっても古代ギリシアである。「無知の知」で知られるソクラテスイデア論を唱えたプラトン、かの有名なアレクサンドロス大王の家庭教師をしていたアリストテレスストア派創始者ゼノン、快楽主義と訳されるエピクロス派のエピクロスなどすべて上げようとすればきりがない。なぜ、古代ギリシアでこれほどまでに哲学が盛んだったのかと問われれば、彼らが暇だったからだと思う。暇といっても毎日仕事もせずに遊んでいたとかではない。ギリシアの土地は石がむき出しになっていて工作などできる土地ではない。そこで彼らは農耕による自給自足路線を捨て、かろうじて育つオリーブとブドウを片手に交易に乗り出した。狩猟採集と比べていくらか楽とはいえ農業も決して楽ではないことは農家の人の早朝から深夜に及ぶ過密スケジュールや若年層の農業離れの状況を見ればわかるだろう。しかし、交易によって他地方との物品の交流が増えるにしたがって国が豊かになる。国が豊かになれば、暮らしに余裕が出てくる。その日の暮らしさえわからない状況では生きること以外のことを考えている余裕はないが、生活が豊かになったため生きること以外も考えるようになった。そして、100人いれば100の意見が並び立つといわれるギリシア人である。哲学にとって欠かせない対話をするにはおあつらえ向きの環境だっただろう。
  • 哲学のメリット
  •  では、哲学をすることのメリットとは何であろうか。よく哲学的な問いとして「なぜ生きるのか」ということが問われるが、その問いはナンセンスだと私は思う。なぜ生きるのかという問いに対する答えはわかりきっている。私たちの両親が結婚し、子供が欲しいと望んだからである。私は「なぜ」という問いを立てるよりも「どう」について考えるほうがいいと思う。つまり、「なぜ生きるのか」よりも「どう生きるのか」である。自分が何をして生きるのかどう生きるのか。それを理解している人はあまりいないだろう。当然である。すべての人が自分がどう生きたいのかを知っていたら、2000年以上も続いてはいなかったはずである。人はどう生きるかといった問いを多くの人が考えてきた。イエスキリストも考えたし、名もなき農民だって考えたろう。しかし、今だに答えは出ていない。当たり前である。すべての人に当てはまる普遍的な答えがないからである。生き方に正しいも間違いも優劣もない。政治や宗教など高尚なことを考察することこそ、最上の生き方だという人もいるし、おいしいチーズとワインに最上の喜びを見出す人もいる。私としては、後者に同調するがそうは思わない人もいる。このようにいろいろな意見があるのが健全な姿である。誰かが言ったことに全員が同調し、異口同音に同じことを言う今の風潮は少し不自然である。この国十人十色という素敵な言葉があるではないか。哲学は自由な学問である。小難しい専門用語や論理は必要ない。必要なのは少しのだけである。
  • これからについて
 このブログ最初の記事ということで長々と哲学について説明をしたが、次からは私が個人的に日ごろ感じたことについて徒然なるままに書いていこうと思う。私自身決して頭の出来が良いほうとは言えないため、取り上げていく事柄もおのずとよく言えば身近、悪くいってしまうと低俗なものになると思う。プラトンの饗宴は面白く読めたが、ソクラテスの弁明は一応読み終えはしたが理解できたかと言われれば相当に怪しいと言わざるを得ない。しかし、私はそれでもいいと思う。高尚な論理も崇高なイデオロギーも面白い本とおいしい食べ物の前には道を譲る。それくらいの気楽さで始められる自由さが哲学にはあると思う。