ペルシア戦争最終決戦!プラタイアの戦いとは

サラミスの海戦での敗戦によりクセルクセスとペルシア艦隊はペルシアへと帰っていったが、マルドニオス率いる30万の陸軍はいまだに健在だった。

 

この戦争をギリシアの勝利で終わらせるためにはこの30万のペルシア軍をたたかなければならなかった。

 

アテナイ再占領

ペルシア軍はサラミスの海戦の年は兵糧補給のためにテッサリア地方に後退した。そして、翌年の紀元前479年再びギリシアに侵攻を始めた。

 

アテナイの近くまでペルシア軍が侵攻してきたところでテミストクレス率いるアテナイ市民は再びアテナイの町を放棄してサラミス島に避難した。今度は二度目ということもあってさしたる混乱はなかっただろう。ペルシア軍はまた無人アテナイ市街を占領したのである。

 

アテナイはペルシアとの陸上決戦を行うべく、連合軍結成を呼び掛けた。アテナイからの要請を受けたスパルタの王パウサニアスは「レオニダスの仇を討て」という信託を受け、1万の重装歩兵とともにアテナイへと向かった。

 

パウサニアスが連れた1万のスパルタ兵だが、常に少数の人口しかもたなかったスパルタではほぼ総動員と言ってもいいくらいの数である。

 

ギリシア連合軍再結成

当初、アッティカ地方で決戦を行うつもりだったが、ペルシア軍がテーバイのあるボイオティア地方へと後退してしまったためこれを追う形となった。

 

三大悲劇詩人のひとり、アイスキュロス出生の地であるエレウエスでスパルタ軍と合流したギリシア軍は高名なペルシア騎兵の対策としてキタイロン山という山に布陣した。

 

ギリシア軍がなかなか平原に降りてこないためマルドニオスはギリシア軍をおびき出そうとしてマシスティオスに率いさせた騎兵隊を送った。騎兵隊に攻撃されたメガラ軍救援のためアテナイの精鋭部隊が駆け付けた。アテナイ軍の到着によってペルシア軍は撃退され、司令官のマシスティオスが討ち取られるまでになった。

 

この勝利により士気の上がったギリシア軍はプラタイアの平原に降りて布陣した。夫人したものの両軍は戦機を探りあったまま10日が過ぎた。11日目にマルドニオスはギリシアの補給路を断つために給水地のガルガビアの泉を襲った。

 

給水地を奪われたギリシア軍は深夜に撤退を決めたが、スパルタ軍のみが深夜の撤退は恥であるとし、日が昇ってから撤退をはじめた。

 

プラタイアの会戦

スパルタ軍の撤退をみたマルドニオスはこれを追撃し、ギリシア軍を壊滅する好機だとみて全軍に攻撃命令を出した。アテナイとメガラ軍だけはスパルタが孤立することを恐れ、布陣したままだったが他のポリスの軍は撤退していた。そのため、戦場には右翼のスパルタ、テゲア軍と左翼のアテナイ、メガラ軍しか残っていなかった。

 

ペルシア軍は戦場に残ったスパルタ軍に襲い掛かったが急な攻撃命令であったため統率の取れた行動がとれなかった。パウサニアスはアテナイに応援を頼み、戦いの吉凶を占った。

 

1度目の占いでは凶が出たため、応戦を禁じ2度目の占いで吉がでたため全軍に攻撃命令を出した。

 

これまで防戦一方だったスパルタ軍が突然雄たけびをあげ、隊列を組んで突撃してきたことでペルシア軍は浮足立った。

 

アテナイ軍はスパルタの応援に向かったが、ペルシアに雇われたギリシア傭兵軍が立ちふさがり、救援に行けなかった。

 

 

数で勝るペルシア軍は休みなく何度も押し寄せ、スパルタ兵の槍をつかんで折ろうとした。槍を折られたスパルタ兵は剣を抜き敵へ向かっていった。戦いの最中一人のスパルタ兵が馬上で指揮を執るマルドニオスを見つけた。彼は足元に落ちていた石を拾うとマルドニオスに向かって力いっぱい投げつけた。石はマルドニオスの顔面に直撃し、総司令官は命を落とした。

 

指揮官を失ったペルシア軍は20万といわれる戦死者を残して我先にと野営地に逃げ込んだ。攻城戦の苦手なスパルタ兵は苦戦していたが、ギリシア傭兵を撃退したアテナイ軍が追いつき城壁を乗り越え突入すると、これを糸口にスパルタ兵も城壁内になだれ込み、占領した。

 

野営地から脱出したペルシア兵たちはペルシアへと陸伝いに逃げて行き、ギリシアからペルシア兵の姿は消えた。

 

サラミスの海戦アテナイが中心となった勝利だったが、プラタイアでの勝利は完全にスパルタの功績である。これ以降、アテナイは海軍国家として、スパルタは陸軍国としてそれぞれ地位を高めていくのである。

 

サラミス、プラタイアでの敗戦により、ペルシアのギリシア征服の望みは断たれ、ギリシアに手を出すと大怪我をするということが示された。そして、ペルシア戦争は分裂状態だったギリシアが一致団結した最後の戦いとなるのである。

 

サラミスの海戦!アテナイの海軍国家としての転換点

テルモピュライでのスパルタ兵300の玉砕は美談として後世にまで伝わっているが、戦闘としてならばギリシア側の敗北である。この敗戦をきっかけにペルシア側に着くポリスが目立ち始めたのである。

 

アテナイ放棄

ペルシア軍接近の報を聞いたテミストクレスは強大なペルシア陸軍からアテナイを守り切ることはできないと判断した。

 

アテナイが港として使っていたピレウスという港町から2キロのところにサラミス島という島が浮かんでいる。

 

現代ではサラミナ島と呼ばれ3万人ほどの人が住んでいる島だが、テミストクレスアテナイを放棄し、全住民をそこに避難させると決めたのである。

 

しかし、一部の人たちはテミストクレスの説得を聞かず、アクロポリスに籠城した。

 

アテナイに到着したペルシア軍は無人アテナイ市街を占領。アクロポリスもペルシアの大軍を前になす術もなく陥落した。

 

サラミス島からは燃え盛るアテナイから上がる煙がよく見えただろう。それを見たアテナイの人たちの心にはペルシアへの復讐心が湧き上がってきたに違いない。

 

テミストクレスの策略

テミストクレスの要望でサラミス島に集まったギリシア艦隊は主戦場をどこに置くか会議を開いた。

 

テルモピュライの防衛線を突破されたことによりギリシア本土は放棄せざるを得なくなった。会議ではイストモスというギリシア本土とペロポネソス半島を繋ぐ要所を主戦場とすることになった。

 

しかし、テミストクレスはペルシアを撃退するのは陸戦ではなく海戦だと確信していた。総司令官のエウリュビアデスのもとに行き、再度会議を開くことを求めた。

 

再び開かれた会議でテミストクレスサラミスで海戦を行うことを主張した。テミストクレスに反対してアテナイ艦隊に離脱されることを恐れたエウリュビアデスは賛成したが、他のポリスの代表者たちはこれに反対した。

 

ギリシア艦隊380にのうち180隻はアテナイの艦隊だったのである。アテナイの艦隊に抜けられるのは得策とは言えなかった。

 

しかし、コリントスの代表を中心に反対するポリスは多く会議は完全に二分した。そこでテミストクレスは一計を案じた。

 

ペルシア軍に使者を送り、ギリシア軍がイストモスに撤退することを伝えたのである。これにはペルシア艦隊を動かすことで無理やりにでもサラミスで決戦させることの他に、もし負けた場合にペルシアに恩を売ることで保身を図るという意味もあった。

 

テミストクレスという人物は決して清廉潔白な人物ではなかった。票を買うことだってしたし、人を騙すことだって平気にした。アテナイの艦隊も本来市民に分配されるはずの金を注ぎ込み作ったのである。

 

このようにして敵味方双方を操ってサラミスで決戦されるように仕向けたテミストクレスの策略は、成功しつつあった。

 

テミストクレスの内通を信じたペルシア艦隊はギリシア本土とサラミスの間を封鎖し、エジプトの艦隊はサラミス島の外側を包囲した。

 

サラミスの海戦

紀元前480年9月20日、ペルシアと決戦すべくギリシア艦隊は一斉に出撃した。ギリシア艦隊はアテナイ船180隻を中心とする380隻であり、ペルシア艦隊はフェニキア船など計684隻だった。

 

大砲のなかった古代の海戦は船の先についた衝角というものを敵船に突き立てたり、敵船に乗り移って白兵戦を繰り広げるといったものだった。

 

 

サラミス島周辺には一定の時刻になるとシロッコという風が吹く。そしてペルシア船は兵を多く乗せるために高く造られている。重心が高い船は風の影響をもろに受けるという欠点がある。テミストクレスはそこに目をつけたのである。

 

サラミスを出撃したギリシア艦隊はペルシア船を前に反転し、逃げるようにサラミス島へ戻って行った。

 

ペルシア船はそれを追いかけて行ったが突如シロッコが吹いたのである。強風をもろに受け立ち往生しているペルシア艦隊に再度反転したギリシア艦隊が突っ込んでいったのである。

 

衝角を突き立てられたペルシア船は次々と沈んでいき、戦列は乱れた。ペルシア軍の損害は詳しくはわからないが壊滅したというほどではないようである。

 

しかし、ペルシア艦隊が壊滅するより前にクセルクセスの心が折れたのである。サラミスを臨む小高い丘から観戦していたクセルクセスは敵を大きく上回る戦力を持ち、勝利を確信していたのである。

 

その彼の前でギリシア船に突撃され、次々とペルシア船が沈んでいく光景はクセルクセスの戦意を喪失させるのに十分だった。

 

マルドニオスに陸軍を預けたクセルクセスはペルシア艦隊を引き連れペルシアに帰ってしまった。

 

これによりギリシアの防衛というギリシア軍の目的は達成されたのである。

その後

サラミスでの戦勝によってアテナイは海軍国としての地位を確かなものにしていく。軍船の漕ぎ手として従軍した下層市民の地位も高まり、民主制国家としても地位を確立していく。

 

第二次ペルシア戦争は海戦での勝利によって大きくギリシア優勢になったがそれを決定的にするのはスパルタを中心とした後のプラタイアの戦いである。

 

 

第二次ペルシア戦争を解説!テルモピュレーでの壮絶な攻防戦

ダレイオス1世は再度のギリシア遠征を計画していたが、エジプトやバビロンで反乱が起きそれに忙殺されているうちに死んでしまった。そのあとを継いだクセルクセス1世はエジプト、バビロンの反乱を鎮圧し、再びギリシアに遠征することを決意した。

 

第二次ペルシア戦争のはじまり

紀元前481年クセルクセス1世は首都スサを出発し、小アジアのサルディスに入った。そこでギリシアの各ポリスに使者を送ってペルシアへの帰属を求めた。

 

アテナイやスパルタなど反ペルシアを明確にしているポリスには使者を送らなかったがこれにより後にアレクサンドロス大王を出すことになるマケドニアペロポネソス戦争後スパルタを破りギリシアの覇権を握ることになるテーベなどがペルシア側についた。

 

後にペルシアを倒し、大国になるマケドニアだが、当時は他のポリスとは違い王政をとっていたことからアテナイなど民主制のポリスからは時代遅れの田舎者と言われ、オリンピックにも参加することは許されていなかった。

 

サルディスに集結したペルシア軍だがヘロドトスの記述によれば、歩兵170万、騎兵8万、軍船51万7000隻から成る計528万以上とされている。しかし、どう考えても多すぎるためヘロドトスが盛ったか、ヘロドトスの記述を写した人が0を多く書き間違えたかだろう。

 

迎え撃つギリシア

ペルシア再侵攻の報を受けたアテナイの政治家テミストクレスは反ペルシアのポリスを招いてイストモスで会議を開いた。

 

この会議ではポリス間の争いの一時休戦、ペルシアへのスパイ派遣、ケルキュラ、クレタ島シチリア島への援軍要請が議決された。

 

4年に1度の休戦期間であるオリンピックが必要なほど戦争ばかりしていたギリシアであるが、強大な敵であるペルシアを前にしてギリシア史上初めて一致団結するのである。利害を超えて団結するためには大きな敵が必要であるということの好例である。

 

援軍要請を受けたポリスだが、全てが反ペルシアに立ち上がったわけではない。スパルタ嫌いのアルゴスギリシア連合にスパルタが参加すると聞いて中立を宣言。クレタとケルキュラもデルファイの信託を理由に中立をとる。

 

紀元前480年、再びイストモスで会議が開かれ、ペルシア軍30万に対する防衛策が協議された。ギリシア連合軍の作戦立案者であるテミストクレスによってテッサリアから中央ギリシアへと抜ける幹線道路であるテルモピュライとエウリポス海峡の入り口のアルテミシオン沖に防衛線を築くことが決められた。

 

ギリシア連合軍テルモピュライへ

スパルタのレオニダス王率いる300のスパルタ重装歩兵、アルカディア諸都市からの援軍がテルモピュライの街道へと向かった。

 

テルモピュライに着いたギリシア軍は街道に放棄されていた城壁を再建し、ここを防衛線とした。

 

ペルシア軍、ギリシア連合軍の戦力だが、ギリシア連合軍はスパルタ兵300、アルカディアの各ポリスの兵1000、その他の都市からの援軍を合わせて5200程度と考えられている。

 

一方ペルシア軍は210万と記述されているがこれも0がひとつ多いと考えるのが妥当である。いずれにせよ両軍の戦力差は絶望的であり、クセルクセスはギリシア軍は戦わずに撤退するだろうと思っていた。

 

しかし、一向にギリシア軍が撤退する気配はなく、5日目にクセルクセスは攻撃を命じた。

 

戦力だけ見ればギリシア軍は無謀としか考えようがないがこれにはテルモピュライの地形が大きく関わっている。

 

テルモピュライは幹線道路と言っても道幅は15mほどしかなく、ペルシア軍はその数を生かして戦うことが出来なかった。そのためギリシア軍は21万全てを相手取る必要はなかったのである。

 

テルモピュライの戦いはじまる

クセルクセスの命で攻撃をはじめたメディア軍はスパルタ兵が立て篭るテルモピュライへ突入した。

 

しかし、狭い地形を利用したファランクスはまさに鉄壁であり不死隊まで投入したペルシア軍だったがギリシア軍の防衛戦を突破することが出来なかった。

 

不死隊といっても隊員が不死身だったわけではなく、欠員が出ても直ちに補充されたためにこう呼ばれたのである。

 

翌日も防衛策を突破することができずにただ損害だけが増えていった。しかし、現地のギリシア人の密告によって迂回路の存在を知ったクセルクセスは夜間に1000名の軍勢を送り、ギリシア軍の背後に回った。

 

これを知ったギリシア軍は直ちに会議が開かれ撤退か抗戦かで意見が割れた。結局、撤退を主張する隊には撤退させ、スパルタ兵300を含む1400人がテルモピュライに残った。

 

クセルクセスは降伏を求めたが、レオニダスはただ一言「来たりて取れ」とだけ返した。

 

スパルタ兵の玉砕

午前10時、ペルシア軍の攻撃により戦闘がはじまった。ギリシア軍は狭い街道から打って出て激戦を繰り広げた。ついにレオニダス王が倒れ、王の遺体を巡って激しい戦いが繰り広げられた。

 

王の遺体を回収したギリシア軍は4回にわたってペルシア軍を撃退したが、背後にまわった部隊が攻めてくると四方から攻められることになった。

 

スパルタ兵は槍が折れると剣で戦い、剣が使い物にならなくなると素手や噛みつき、落ちている石すらも用いて戦った。

 

返り血を浴び、鬼よ形相で戦うスパルタ兵に恐れをなしたペルシア軍は肉弾戦を拒み、遠くから矢を浴びせ最後まで残ったギリシア兵は全滅した。

 

最後の戦いはまさしく激戦で、この日だけで約2万のペルシア兵が戦死したとされている。

 

テルモピュライの影響

レオニダスとスパルタ兵300の玉砕はギリシア中に伝わり、あの自国第一主義のスパルタがギリシアのために最後まで戦ったという事実はギリシアの団結心を高めた。

 

精神面だけでなく、スパルタがペルシア軍を足止めしたおかげでアテナイは海軍を整備する時間がとれ、のちのサラミスの海戦の勝利へと繋がっていくのである。

   

   

 

 

第一次ペルシア戦争とは? ギリシアはどのように迎え撃ったのか?

紀元前490年、ペルシアの君主ダレイオス1世はペルシアへの服従を拒否したギリシアの都市を攻略すべく600隻の艦隊を派遣した。

 

ペルシア戦争の経緯についてはヘロドトスの『歴史』が唯一の資料だが、ヘロドトスはどうも数字を盛る癖があったらしく600隻と言う数は現実的に考えてありえないのでは無いかと思う。

 

ガレー船同士の最大規模である「レパントの海戦」でもオスマン帝国、キリスト連合軍両軍合わせて400隻という数である。ペルシアが派遣した艦隊を実際は600隻の半分もあるかどうかといったところだったのでは無いだろうか。

 

エレトリア攻防戦

ペルシアを出発した艦隊はまずナクソスを攻め落とし、ミレトスの反乱でミレトスを支援したエレトリアに向かった。

 

ペルシアを迎え撃つことになったエレトリアだが、ペルシアの大軍を前にして親ペルシア派と反ペルシア派との間で混乱が起きていた。

 

アテナイはエレトリア支援のために援軍を送ったが、エレトリアの混乱状態の前に何もすることは出来ず、アテナイへと帰っていった。

 

エレトリアに到着したペルシア軍はエレトリアを包囲、攻撃を開始した。エレトリアは街に立てこもり、防戦したが、7日目に国内の親ペルシア派が内部から城門を開けてついに陥落した。

 

ペルシア軍のマラトン上陸

エレトリアを攻略したペルシア軍はさらに進路を進めてマラトンに上陸した。マラトンアテナイの北東28kmに位置する平原で、エーゲ海に面しているため、アテナイきっての良港だった。

 

ペルシア軍のマラトン上陸を知ったアテナイ軍は軍を編成。スパルタに支援を求める使者を送り、プラタイアからの援軍を得て、ミルティアデス以下10人の将軍を選出してマラトンへと軍を進めた。

 

ペルシア軍は軽装歩兵、重装歩兵、騎兵から成る2万の軍勢を配置し、アテナイ軍を待った。アテナイ兵9600、プラタイア兵600から成るギリシア連合軍はマラトン南部の街道から侵入し、陣を張った。

 

アテナイ、プラタイア連合軍らスパルタの援軍を待つか待たないかで意見が割れた。当時10人の将軍が日替わりで総指揮を取っていたが、主戦派であったミルティアデスは自分の番が来ると開戦に踏み切った。

 

ミルティアデスは横に長いペルシアの陣形を見て数で勝るペルシア軍に包囲されることを恐れて、自軍を横に引き伸ばしたため中央部が薄くなった。

 

両翼はギリシアの伝統に忠実に右翼に主力部隊を配置し、これをカリマコスに率いさせた。プラタイアからの援軍は左翼に配置した。

 

マラトンの戦い

早朝、ついにギリシア軍によって戦いの火蓋が落とされた。弓兵の射程距離に入ったところで突然駆け出すという奇襲戦法によってペルシア側はかき乱され、時が経つと長時間の戦闘に耐えることができるギリシアファランクスが効果を発揮した。

 

戦闘開始からしばらくすると、ミルティアデスによって拡張された両翼の部隊がペルシア軍の両翼を敗走させることに成功した。

 

ペルシア軍を敗走させたギリシアの両翼は中央のペルシア軍の背後に回り込み包囲、これを壊滅させた。

 

この戦いでペルシア軍の死者は6400人。ギリシア連合軍は右翼の主力部隊を率いていたカリマコスを含む192人が戦死した。

 

アテナイが支援を求めていたスパルタだが、200kmをわずか2日で踏破したが戦場についたときには全てが終わった後だった。

 

マラトンの戦い後

大国ペルシアを完膚なきまでに打ち倒したという知らせはギリシア中を歓喜の渦に巻き込んだ。マラトンで戦った兵士は戦士の理想とされマラトーノマカイと呼ばれた。

 

マラトンでの戦勝により、アテナイの世論は反ペルシアで固まりペルシア宥和策を唱えていた政治家は陶片追放によって国外追放にされた。

 

マラトンの戦いでの有名な話として戦勝を知らせるためマラトンからアテナイまで走り、戦勝を告げた途端絶命した兵士に因んで近代マラソンの距離が42kmとしたという話があるが、兵士が走って絶命した距離を選手に走らせるのはいかがなことかと個人的には思う。

 

因みに一躍マラトンの英雄となったミルティアデスだが、彼は後にペルシアを支援したパロス島を撃つべく国内の反対にも関わらず遠征を強行するが失敗に終わり裁判を起こされる。

 

初めは死刑が求められていたがマラトンの英雄ということが考慮され、50タレントの罰金刑になった。

 

現代とは物価が大きく異なるためタレントが今のいくらに相当するかは確かなことは言えないが、大体労働者16年分の年収だったとされている。

 

このような莫大な罰金刑を課せられたミルティアデスだが、罰金を払い終える前にパロス島遠征で受けた傷が元で獄中で死ぬという結末を迎えている。

 

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多くの哲学者を生んだ古代ギリシアとはどのような時代だったのか

ソクラテスプラトンアリストテレス。哲学の始まりの地であり、多くの哲学者を生んだ古代ギリシア。では、彼らの生まれ育った古代ギリシアとはどのような時代だったのか。なぜ、古代ギリシアで哲学が生まれ、繁栄したのか。今回は哲学とは離れるが、彼らの生きた時代を知ることは彼らの思想を読み解く上で無駄ではないと思う。

 

都市国家の形成

古代ギリシア地方の人類の痕跡は40万年前にさかのぼることができるが、ここではもう少し後の時代を扱う。紀元前3200年ほど前からギリシア地方では青銅器が使われ始めた。この時代から地中海地方特産のオリーブやブドウが作られ始めた。ギリシア地方をテレビなどで見たことがある人ならわかると思うが、あのあたりは岩石が多くとてもすべての人の口を満たすだけの小麦を作ることができない。そこで彼らは豊富に作れるオリーブや葡萄酒をもって海に出た。交易である。

 

ミケーネ文明はエーゲ海シチリア島キプロス島にも広がりクレタ島で栄えたミノア文明も征服する。しかし、前1200年突如ミケーネ文明は消滅する。何故ミケーネ文明が滅びたのかは推測の域をでないが、ティリンスというペロポネソス半島の町では大きな地震があったことは確認されている。

 

このカタストロフはギリシアだけでなくエジプトや西アジア小アジアクレタ島を襲い、特にギリシアではその被害は大きくこれまで使われていた線文字Bは忘れ去られ、あらゆる文化的なものは姿を消した。

 

しかし、ギリシアはこのカタストロフによって大きな恩恵を得た。東方では中央集権的な王政が広まっていたが、東方との関係が遮断されたためギリシアに王政が広まることはなくアクロポリスを中心とした都市国家が形成された。

 

ポリスの発達と植民の開始

前8世紀以降、ポリスが発達しポリス内での政争に敗れた人々がシチリア南イタリアなどに移住するようになった。これにより、ギリシア人は地中海全域に広まり各地のポリス間での交易が活発になった。

 

中でもアテナイは立地を生かし、陶器や奴隷の輸出によって経済的に発展した。また、ギリシア唯一の銀山であるラウリオン銀山が開発されるとギリシア随一の都市国家となった。

 

後にアテナイと並ぶ強力な都市国家となるスパルタは同じころリュクルゴスによる今後の国体を決める大きな改革が行われていた。最も有名なスパルタの特徴である市民皆兵制度もこの改革によって定められた。

 

前743年、スパルタは隣国のメッセニアに攻め込みこれを征服した。スパルタは原住民をヘイロータイ と呼ばれる農奴とした。ヘイロータイは参政権がなく、スパルタ人に作物を納めるのが仕事だった。15万から20万と言われるヘイロータイに対し18歳以上の男子で構成されるスパルタ市民の数は1万から1万5千程度だったと考えられている。量こそ多くはなかったが幼いころより厳しい訓練が施され、どんな過酷な状況でも耐えられるように訓練されたスパルタ兵はギリシア最強とされた。

 

ペルシア戦争の勃発

古代ギリシア史で最も激動的な事件といえばアケメネス朝によるギリシア侵攻だろう。迎え撃ったギリシアからの呼称でペルシア戦争と呼ばれるこの戦争はギリシア本土とエーゲ海を挟んだ対岸のミレトスという港町の反乱をきっかけにしてはじまった。

 

ミレトスはアケメネス朝の支配下にあったが紀元前498年ミレトスの僭主アリスタゴラスは反乱を企て、アテナイに援軍を求めた。アテナイの指導者クレイステネスはペルシアと同盟を結ぼうとしたが民会はこれを拒否。ミレトスへの援軍を決定した。

 

アテナイの軍船20隻とエレトリアの軍船5隻の船団はイオニア軍と合流し、「王の道」の終着点サルディスを攻撃した。ペルシア軍はサルディスの市街地を放棄。中心部のアクロポリスのみを防衛する戦略をとった。さしたる戦闘もなく市街地を占拠したイオニア軍は市街地を焼き討ちしたが、アクロポリスを攻め落とすことはできず、ペルシア側の援軍を恐れた反乱軍は撤退した。しかし、途中でペルシアの騎兵隊の追撃を受け、反乱軍は壊滅した。これにより、アテナイ、エレトリア両軍は支援を打ち切った。

 

ミレトスへの支援を打ち切ったアテナイだったが反乱の支援はペルシア側にギリシア侵攻の口実を与えることとなった。紀元前492年ペルシア王ダレイオス1世はアテナイ、エレトリア両国への報復という名目でギリシア侵攻を開始した。

 

ペルシア艦隊はエーゲ海北部を進んでいたが暴風に遭遇し、大きな被害を受けた。陸軍もマケドニアで原住民の襲撃を受け、遠征軍を率いていたマルドニオスが負傷し、撤退した。

 

この侵攻は征服のための侵攻ではなく、偵察のためであったと現在では考えられている。本格的なギリシア侵攻である第一次ペルシア戦争は次の記事で書こうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

イデア論とは?ソクラテスの弟子筆頭、プラトンを解説!

数多くのソクラテスの弟子の中で最も有名な人物はプラトンであろう。ソクラテスは著作を残さなかったため、ソクラテスの言行を知るためにプラトンの著作は欠かせないのである。今回は哲学者としても文筆家としても高名なプラトンについて探ってみたいと思う。

 

プラトンとはどのような人物か

プラトンは紀元前427年にアテナイの名門貴族の家系に生まれた。はじめはアリストクレスと名付けられたが体格が大きかったため「広い」を意味する「プラトンというあだ名をつけられた。古代ではあだ名がそのまま名前になることは多く、古代ローマの将軍カエサルフェニキア語で象という意味だし、カエサルを暗殺したブルータスは馬鹿者という意味である。

 

プラトン」というあだ名をつけられるだけあって、青年期はレスリングなどの格闘技をしていたようである。他にも貴族に生まれた者の責務である政治家を志していた。当時はアテナイ最高の政治家、ペリクレスの黄金時代であり、アテナイは繁栄を極めていた。

 

しかし、遂にスパルタ率いるペロポネソス同盟との対立が火を噴き、戦争へと突入する。戦争中にペリクレスが死に、シチリア遠征も失敗。そして、アテナイの誇りであった海軍が陸軍国家スパルタに敗れ、ペロポネソス戦争はスパルタの勝利に終わる。戦争に敗れたアテナイの政治は混乱を極める。そして、プラトンの思想に大きな影響を与えた、ソクラテス裁判が起きる。

 

ソクラテス裁判とプラトン

ソクラテス裁判の詳細はこちらの記事を見ていただきたい

tetsuburoger.hatenablog.com

ソクラテス裁判は民主制の欠陥がもろに出た結果となった。戦争に負け、経済も混乱する中、民衆は一人毅然としているソクラテスに我慢ならなかったのである。その結果ソクラテスは死刑となり、脱走の勧めを断り毒をあおって死ぬ。

 

プラトンはこれを見て絶望するのである。民衆を扇動し、自らの利益しか追求しない政治家や何も考えずに目先の欲望を満たすことしかしない民衆を幻滅したのである。そして、彼は政治家の道を諦めた。

 

シチリア旅行とアカデメイア開設

彼が39歳の頃、イタリアやシチリア島、エジプトを旅してピュタゴラス派などの哲学者と交流している。

 

その旅から帰ってきた後、彼は「アカデミー」の語源となるアカデメイアを開設するのである。アカデメイアとは土地の名前で彼がそこに自らの土地を持っていたことに由来する。

 

アカデメイアでは哲学だけでなく、天文学や数学なども教えられ教師と生徒の問答が重視された。

 

プラトンが60歳の頃にのちにマケドニアアレクサンドロス大王の家庭教師となるアリストテレスアカデメイアに通うようになる。

 

シチリア旅行と哲人政治

彼は祖国アテナイの政治の混迷から哲学者こそが政治をするべきだという考えに至った。現在のアテナイを支配している政治家たちは己の利益しか考えない。しかし、哲学者ならば私益を考えずに統治できると考えたからである。

 

紀元前367年シチリアの強国シラクサの僭主ディオニュシオス2世の親戚ディオンから頼まれ、プラトンシラクサへ向かう。彼はディオニュシオス2世を指導し、哲人政治を実現させようとするが、ディオンが追放されてしまい失敗に終わる。

 

紀元前361年今度はディオニュシオス2世から頼まれ、3回目のシチリア旅行へと向かった。しかし、プラトン自身が軟禁されてしまい、友人の助けを借りてなんとかアテナイまで帰るという始末でまたしても哲人政治実現は失敗に終わるのである。

 

最終的にディオンが暗殺されたことにより彼は哲人政治実現を諦め、晩年アカデメイアでの教育に力を注いで80歳で息を引き取る。

 

イデア論

彼の思想で最も有名なのがこのイデア論であろう。イデア論とは物質、非物質であろうと物事にはイデアと呼ばれる完璧な状態がある。しかし、我々は不完全な存在であるためイデアを見ることができないという考え方である。

 

私たちが生まれる前、まだ神と同一の状態の魂だった頃にイデアを見ている。だから、現世でものを見ると魂だった頃の記憶が思い出されるのである。

 

プラトンの考える哲学をとは、魂だった頃の記憶を数学や幾何学などを用いて思い出そうとするものである。

 

彼は、イデアに近づこうとすることこそ人間が善く生きる道であると考えた。イデア論とは完璧なものなど存在しないから人は何をしても無駄であると言っているのではない。完璧になれなくても完璧に近づこうとすることに意味があると言っているのである。

 

まとめ

プラトンの思想の形成にソクラテスの処刑が大きく関わっているのは明らかである。芸術は負の感情から発生すると言うが、哲学も同じなのかもしれない。

 

プラトンは哲学者としてだけでなく、文筆家としても一級である。ソクラテスの弁明などは難解で私には理解できなかったが、饗宴は間違いなく面白い。特に酔っ払ったアルキビアデスが乱入してくるところは、人間は古代ギリシアの時代から様々な進歩を遂げてきたが、酔っ払いのタチの悪さについては、2000年間何も進歩していないのかと言うことを気づかせてくれる。

 

 

ソクラテスとは?「無知の知」を考え付いた哲学者

 哲学を語る上でソクラテスは欠かせない人物である。彼の思想はプラトンなど多くの人に大きな影響を与え、現代にいたるまでソクラテスについての書物は数多く出版され続けている。今回はソクラテスの思想を彼の人生から考えてみたいと思う。

 

ソクラテスとは?

ソクラテスとはどのような人物でいつの時代に生きたのかをまずは説明しておこう。ソクラテス古代ギリシア都市国家アテナイに生まれた。後のペロポネソス戦争で重装歩兵として従軍していることから中流以上の資産の持ち主だったと考えられる。

 

彼の妻は悪妻の代名詞クサンティッペ。彼女の悪妻として知られる行為の多くは後世の創作とされているが、プラトンによると「妻としても女としてもなにも良いことをしなかった」と言われている。しかし、四六時中出歩き、家にいても夫婦らしい会話などそっちのけで哲学的なことに考えを巡らせている夫を相手にしていれば、なにもすることなどなかっただろう。

 

ソクラテスの特徴としては風呂にあまり入らなかったことと何の前触れもなく物思いにふけりフリーズしてしまうことだろう。プラトンの『饗宴』の冒頭はアリストデモスが風呂に入って体をきれいにして靴を履いたソクラテスに出会い、普段風呂なんて入らないあなたが風呂なんかに入り、靴まで履くなんて一体何事かとソクラテスに尋ねている。

 

突然物思いにふけるという彼の癖も周りの人からすれば困ったものだったろう。悲劇作家アガトンのコンクール優勝のパーティーに向かう途中でアリストデモスと出会ったソクラテスはパーティーに招待されていないアリストデモスを連れて行こうとする。しかし、アガトンの家に向かう途中でソクラテスは例のフリーズを起こしてしまう。招待されていないパーティに一人で向かう羽目になってしまったアリストデモスには同情するが、ソクラテスと仲のいい人にとっては見慣れた光景だったのかもしれない。

 

無知の知の形成

ソクラテスの代名詞である無知の知に至ったきっかけは彼の弟子のひとりがデルフォイソクラテス以上の賢者はいないという信託を受けたことである。ソクラテスはそれを聞いて驚き、自分以上で賢者を見つけることでその信託が間違っていると証明しようとした。しかし、世の中の賢者と呼ばれている人たちと問答してみても、彼ら自身がよく知っていると思っているものも詳しく突き詰めていくとほとんど何も理解していないのではないかと思うようになった。

 

そこで彼は人々から賢者と呼ばれている人であっても知っていると思い込んでいるだけで実際は何も知ってはおらず、ソクラテス以上の賢者はいないという信託の意味は知っていると思い込んでいる人たちよりも知らないということを知っている自分の方が少しばかり賢いということ意味だと思い至った。

 

それからソクラテスは他の人にも「無知の知」を自覚させることこそ自分の使命だと思い、いろいろな人に問答法によって無知を自覚させようとした。知識ある人の代表格、医者を例にとってみるとこのような感じである。

ソクラテス 「あなたは医術を生業としていますけど医術とはなんですか?」

医者「それは病気の人を治すことです」

ソクラテス 「それでは病気とはどのような状態のことですか?」

医者「それは健康、つまり普通の状態ではないことです」

ソクラテス「普通とは人それぞれ違うものです。私がしばしば起こすフリーズも普通ではありませんが、私は病気だとは思いません。病気が普通の状態ではないというのは違うのではありませんか?」

医者「ではあなたはどう思うのか?」

ソクラテス「私もよく知りません。しかし、知らないということは少しも恥ずかしくありません。私と一緒に考えてみましょう」

とまあ、こんな感じである。ソクラテスはこのようにして、会う人全てと問答していったのである。やはり、相当に口が回ったのだろう。相手に言い負かされていたらあんなに弟子はつかなかったはずだし、哲学者として現代まで名を残していなかったはずだからである。

 

ソクラテス裁判と刑死

しかし、ソクラテスのやり方は敵を多く作った。彼の問答の「被害者」になったのは知識を売りにしている人たちであった。現代でたとえるならば、昼のワイドショーに出ているコメンテーターが公衆の面前で風呂にも入らないようなおじさんに完全論破されているのである。

 

一般の人たちからすれば、普段知識人ぶって偉そうにしている人たちが追い詰められていく様は愉快だったかもしれない。しかし、彼らからすれば立派な営業妨害である。彼らがソクラテスを目の敵にしたのも無理はない。

 

ついに、ソクラテスは青年たちに害をもたらしているとして裁判にかけられた。なんとも曖昧な罪状だが、ソクラテスに弱みがなかったわけでもない。ペロポネソス戦争中、ソクラテスの弟子の一人アルキビアデスがアテナイの敵国スパルタに亡命し、スパルタの軍事顧問のような立場になったのである。

 

アテナイシチリア島に遠征したが、アルキビアデスの助言によりスパルタはシチリアにギュリッポス率いる援軍を送る。ギュリッポスによって鍛えられたシチリア軍はアテナイ軍を散々に打ち負かし、遠征軍は全滅する。

 

ソクラテスに言い負かされた知識人たちはソクラテスを告発し、民衆はシチリア遠征の失敗の原因であるアルキビアデスの師匠であるソクラテスを憎むようになった。その結果、ソクラテスの弁明も功を奏さず死刑の判決を受ける。そして、彼は「悪法もまた法である」という信念に従って、クリトンらの国外亡命の勧めを断り、ドクニンジンの杯をあおって死ぬのである。