第二次ペルシア戦争を解説!テルモピュレーでの壮絶な攻防戦

ダレイオス1世は再度のギリシア遠征を計画していたが、エジプトやバビロンで反乱が起きそれに忙殺されているうちに死んでしまった。そのあとを継いだクセルクセス1世はエジプト、バビロンの反乱を鎮圧し、再びギリシアに遠征することを決意した。

 

第二次ペルシア戦争のはじまり

紀元前481年クセルクセス1世は首都スサを出発し、小アジアのサルディスに入った。そこでギリシアの各ポリスに使者を送ってペルシアへの帰属を求めた。

 

アテナイやスパルタなど反ペルシアを明確にしているポリスには使者を送らなかったがこれにより後にアレクサンドロス大王を出すことになるマケドニアペロポネソス戦争後スパルタを破りギリシアの覇権を握ることになるテーベなどがペルシア側についた。

 

後にペルシアを倒し、大国になるマケドニアだが、当時は他のポリスとは違い王政をとっていたことからアテナイなど民主制のポリスからは時代遅れの田舎者と言われ、オリンピックにも参加することは許されていなかった。

 

サルディスに集結したペルシア軍だがヘロドトスの記述によれば、歩兵170万、騎兵8万、軍船51万7000隻から成る計528万以上とされている。しかし、どう考えても多すぎるためヘロドトスが盛ったか、ヘロドトスの記述を写した人が0を多く書き間違えたかだろう。

 

迎え撃つギリシア

ペルシア再侵攻の報を受けたアテナイの政治家テミストクレスは反ペルシアのポリスを招いてイストモスで会議を開いた。

 

この会議ではポリス間の争いの一時休戦、ペルシアへのスパイ派遣、ケルキュラ、クレタ島シチリア島への援軍要請が議決された。

 

4年に1度の休戦期間であるオリンピックが必要なほど戦争ばかりしていたギリシアであるが、強大な敵であるペルシアを前にしてギリシア史上初めて一致団結するのである。利害を超えて団結するためには大きな敵が必要であるということの好例である。

 

援軍要請を受けたポリスだが、全てが反ペルシアに立ち上がったわけではない。スパルタ嫌いのアルゴスギリシア連合にスパルタが参加すると聞いて中立を宣言。クレタとケルキュラもデルファイの信託を理由に中立をとる。

 

紀元前480年、再びイストモスで会議が開かれ、ペルシア軍30万に対する防衛策が協議された。ギリシア連合軍の作戦立案者であるテミストクレスによってテッサリアから中央ギリシアへと抜ける幹線道路であるテルモピュライとエウリポス海峡の入り口のアルテミシオン沖に防衛線を築くことが決められた。

 

ギリシア連合軍テルモピュライへ

スパルタのレオニダス王率いる300のスパルタ重装歩兵、アルカディア諸都市からの援軍がテルモピュライの街道へと向かった。

 

テルモピュライに着いたギリシア軍は街道に放棄されていた城壁を再建し、ここを防衛線とした。

 

ペルシア軍、ギリシア連合軍の戦力だが、ギリシア連合軍はスパルタ兵300、アルカディアの各ポリスの兵1000、その他の都市からの援軍を合わせて5200程度と考えられている。

 

一方ペルシア軍は210万と記述されているがこれも0がひとつ多いと考えるのが妥当である。いずれにせよ両軍の戦力差は絶望的であり、クセルクセスはギリシア軍は戦わずに撤退するだろうと思っていた。

 

しかし、一向にギリシア軍が撤退する気配はなく、5日目にクセルクセスは攻撃を命じた。

 

戦力だけ見ればギリシア軍は無謀としか考えようがないがこれにはテルモピュライの地形が大きく関わっている。

 

テルモピュライは幹線道路と言っても道幅は15mほどしかなく、ペルシア軍はその数を生かして戦うことが出来なかった。そのためギリシア軍は21万全てを相手取る必要はなかったのである。

 

テルモピュライの戦いはじまる

クセルクセスの命で攻撃をはじめたメディア軍はスパルタ兵が立て篭るテルモピュライへ突入した。

 

しかし、狭い地形を利用したファランクスはまさに鉄壁であり不死隊まで投入したペルシア軍だったがギリシア軍の防衛戦を突破することが出来なかった。

 

不死隊といっても隊員が不死身だったわけではなく、欠員が出ても直ちに補充されたためにこう呼ばれたのである。

 

翌日も防衛策を突破することができずにただ損害だけが増えていった。しかし、現地のギリシア人の密告によって迂回路の存在を知ったクセルクセスは夜間に1000名の軍勢を送り、ギリシア軍の背後に回った。

 

これを知ったギリシア軍は直ちに会議が開かれ撤退か抗戦かで意見が割れた。結局、撤退を主張する隊には撤退させ、スパルタ兵300を含む1400人がテルモピュライに残った。

 

クセルクセスは降伏を求めたが、レオニダスはただ一言「来たりて取れ」とだけ返した。

 

スパルタ兵の玉砕

午前10時、ペルシア軍の攻撃により戦闘がはじまった。ギリシア軍は狭い街道から打って出て激戦を繰り広げた。ついにレオニダス王が倒れ、王の遺体を巡って激しい戦いが繰り広げられた。

 

王の遺体を回収したギリシア軍は4回にわたってペルシア軍を撃退したが、背後にまわった部隊が攻めてくると四方から攻められることになった。

 

スパルタ兵は槍が折れると剣で戦い、剣が使い物にならなくなると素手や噛みつき、落ちている石すらも用いて戦った。

 

返り血を浴び、鬼よ形相で戦うスパルタ兵に恐れをなしたペルシア軍は肉弾戦を拒み、遠くから矢を浴びせ最後まで残ったギリシア兵は全滅した。

 

最後の戦いはまさしく激戦で、この日だけで約2万のペルシア兵が戦死したとされている。

 

テルモピュライの影響

レオニダスとスパルタ兵300の玉砕はギリシア中に伝わり、あの自国第一主義のスパルタがギリシアのために最後まで戦ったという事実はギリシアの団結心を高めた。

 

精神面だけでなく、スパルタがペルシア軍を足止めしたおかげでアテナイは海軍を整備する時間がとれ、のちのサラミスの海戦の勝利へと繋がっていくのである。