ソクラテスとは?「無知の知」を考え付いた哲学者

 哲学を語る上でソクラテスは欠かせない人物である。彼の思想はプラトンなど多くの人に大きな影響を与え、現代にいたるまでソクラテスについての書物は数多く出版され続けている。今回はソクラテスの思想を彼の人生から考えてみたいと思う。

 

ソクラテスとは?

ソクラテスとはどのような人物でいつの時代に生きたのかをまずは説明しておこう。ソクラテス古代ギリシア都市国家アテナイに生まれた。後のペロポネソス戦争で重装歩兵として従軍していることから中流以上の資産の持ち主だったと考えられる。

 

彼の妻は悪妻の代名詞クサンティッペ。彼女の悪妻として知られる行為の多くは後世の創作とされているが、プラトンによると「妻としても女としてもなにも良いことをしなかった」と言われている。しかし、四六時中出歩き、家にいても夫婦らしい会話などそっちのけで哲学的なことに考えを巡らせている夫を相手にしていれば、なにもすることなどなかっただろう。

 

ソクラテスの特徴としては風呂にあまり入らなかったことと何の前触れもなく物思いにふけりフリーズしてしまうことだろう。プラトンの『饗宴』の冒頭はアリストデモスが風呂に入って体をきれいにして靴を履いたソクラテスに出会い、普段風呂なんて入らないあなたが風呂なんかに入り、靴まで履くなんて一体何事かとソクラテスに尋ねている。

 

突然物思いにふけるという彼の癖も周りの人からすれば困ったものだったろう。悲劇作家アガトンのコンクール優勝のパーティーに向かう途中でアリストデモスと出会ったソクラテスはパーティーに招待されていないアリストデモスを連れて行こうとする。しかし、アガトンの家に向かう途中でソクラテスは例のフリーズを起こしてしまう。招待されていないパーティに一人で向かう羽目になってしまったアリストデモスには同情するが、ソクラテスと仲のいい人にとっては見慣れた光景だったのかもしれない。

 

無知の知の形成

ソクラテスの代名詞である無知の知に至ったきっかけは彼の弟子のひとりがデルフォイソクラテス以上の賢者はいないという信託を受けたことである。ソクラテスはそれを聞いて驚き、自分以上で賢者を見つけることでその信託が間違っていると証明しようとした。しかし、世の中の賢者と呼ばれている人たちと問答してみても、彼ら自身がよく知っていると思っているものも詳しく突き詰めていくとほとんど何も理解していないのではないかと思うようになった。

 

そこで彼は人々から賢者と呼ばれている人であっても知っていると思い込んでいるだけで実際は何も知ってはおらず、ソクラテス以上の賢者はいないという信託の意味は知っていると思い込んでいる人たちよりも知らないということを知っている自分の方が少しばかり賢いということ意味だと思い至った。

 

それからソクラテスは他の人にも「無知の知」を自覚させることこそ自分の使命だと思い、いろいろな人に問答法によって無知を自覚させようとした。知識ある人の代表格、医者を例にとってみるとこのような感じである。

ソクラテス 「あなたは医術を生業としていますけど医術とはなんですか?」

医者「それは病気の人を治すことです」

ソクラテス 「それでは病気とはどのような状態のことですか?」

医者「それは健康、つまり普通の状態ではないことです」

ソクラテス「普通とは人それぞれ違うものです。私がしばしば起こすフリーズも普通ではありませんが、私は病気だとは思いません。病気が普通の状態ではないというのは違うのではありませんか?」

医者「ではあなたはどう思うのか?」

ソクラテス「私もよく知りません。しかし、知らないということは少しも恥ずかしくありません。私と一緒に考えてみましょう」

とまあ、こんな感じである。ソクラテスはこのようにして、会う人全てと問答していったのである。やはり、相当に口が回ったのだろう。相手に言い負かされていたらあんなに弟子はつかなかったはずだし、哲学者として現代まで名を残していなかったはずだからである。

 

ソクラテス裁判と刑死

しかし、ソクラテスのやり方は敵を多く作った。彼の問答の「被害者」になったのは知識を売りにしている人たちであった。現代でたとえるならば、昼のワイドショーに出ているコメンテーターが公衆の面前で風呂にも入らないようなおじさんに完全論破されているのである。

 

一般の人たちからすれば、普段知識人ぶって偉そうにしている人たちが追い詰められていく様は愉快だったかもしれない。しかし、彼らからすれば立派な営業妨害である。彼らがソクラテスを目の敵にしたのも無理はない。

 

ついに、ソクラテスは青年たちに害をもたらしているとして裁判にかけられた。なんとも曖昧な罪状だが、ソクラテスに弱みがなかったわけでもない。ペロポネソス戦争中、ソクラテスの弟子の一人アルキビアデスがアテナイの敵国スパルタに亡命し、スパルタの軍事顧問のような立場になったのである。

 

アテナイシチリア島に遠征したが、アルキビアデスの助言によりスパルタはシチリアにギュリッポス率いる援軍を送る。ギュリッポスによって鍛えられたシチリア軍はアテナイ軍を散々に打ち負かし、遠征軍は全滅する。

 

ソクラテスに言い負かされた知識人たちはソクラテスを告発し、民衆はシチリア遠征の失敗の原因であるアルキビアデスの師匠であるソクラテスを憎むようになった。その結果、ソクラテスの弁明も功を奏さず死刑の判決を受ける。そして、彼は「悪法もまた法である」という信念に従って、クリトンらの国外亡命の勧めを断り、ドクニンジンの杯をあおって死ぬのである。