生きるとは?

私の考える「生きる」

前回の記事で哲学において私はどう生きるかが重要だと言ったが、今回は私が生きるとはどういうものだと考えているのか述べようと思う。

 

どう生きてはいけないか

 人は何のために生きているのか。誰しも一度は考えたことがあるだろう。私も考えたことがある。自分の人生に絶望しているわけではないし、何か大きな悩みがあるわけでもない。しかし、自分の存在理由や生きる目的というものを知りたいと思うのは人間の自然な欲望なのではないだろうか。「人は善く生きるべきだ」というソクラテスの言葉は知ってはいるが「善く」とは何であろうか。人助けや共同体の利益になることなど社会的によいとされている行為はある。しかし、私はそれらの行為が生きる目的になるとはどうしても思えない。人助けに費やすだけの人生などなんとむなしいことか。やはり人生は自分のためであるべきだ。どう生きるべきかという問いに対する万人に当てはまる答えを私は持っていないがこれだけは確信を持って言える。私たちは我慢するために生きているのではないということだ。

 善く生きる

ソクラテスの善く生きるという言葉を私は「自分に忠実であれ」と解釈する。「なんだそんなこと、当たり前じゃないか」と思う人もいるだろうが、自分に忠実であることは意外に難しい。まず、それには並々ならぬ意志の力が必要である。どんな状況でも自分の意志を貫ける人はそうそういない。たいていの人は何かと理由をつけてあきらめてしまうのではないだろうか。かく言う私も日課のサイクリングを風が強いだの疲れが残っているだの何かと理由をつけてサボる意志の力などかけらもない人の一人である。自らの夢をかなえるために悪魔の子と呼ばれ、全イタリアから憎悪されたチェーザレ・ボルジアと手を結んだレオナルド・ダ・ヴィンチを見習わなければならない。私たちを縛るものはたくさんある。それは社会の常識だったり、自分自身であるかもしれない。自分のやりたいことをやるというのも意外と難しいものなのだ。だが、なにも悪魔の子と手を結べと言っているのではない。ほんの少しでもいいから現代の社会を支配する倫理観や常識から自由であるだけでいいのだ。それだけで「どう生きるのか」という疑問が少しでもわかりやすくなるだろう。

まとめ

「どう生きるのか」という問いは人類が存在する限り続いていくだろう。その答えは人の数だけあるだろう。私個人としては生きることとは自分に忠実であることだと思っている。このシンプルだが、困難な答えに沿って生きていけるかはわからない。だが、少しでも意識してみるだけで人生観というものは大きく変わると思う。