現代人は今こそ哲学をするべき

 
  • 哲学とは?
  • 多くの人は哲学という言葉を聞いたことがあるだろう。しかし、多くの場合は「哲学」という単語ではなくテレビや雑誌のインタビューなどでカリスマ経営者と呼ばれる人たちが語る「経営哲学」や有名人たちの言う「人生哲学」という哲学+αの熟語としてだろう。「経営哲学」や「人生哲学」というと何やらその人の経営のモットーや人生の指針というようなイメージがあるが、「哲学」という言葉にはどのような意味があるのだろうか。辞書で「哲学」と調べると物事の根源を理性的に探ることを目的とした学問とある。小難しい言葉が並んでいてわかりにくいが、要するに「生きるとは何か」とか「善悪とは何だろう」といあった感じで当たり前に存在しているものを改めて考えてみるという学問である。哲学にルールはない。大学のお偉い肩書を持った教授がプラトンデカルトの本や海外の権威あるとされている人の著作を読んで「~~の著作から読み解く~~についての考察」という論文を書いたとしてもそれも哲学であるし、あなたが学校や仕事で疲れて、ベッドに倒れこんで「私ってなんで生きているんだろう」と考えるのも哲学である。
  • 哲学のはじまり
  •  おおまかに哲学というものを説明したがそのはじまりについて知るのもいいと思う。ここら辺は知らないといけないものでもないため、読み飛ばしてもらっても大丈夫。
  •  哲学の歴史を知る上で最も重要なのは何といっても古代ギリシアである。「無知の知」で知られるソクラテスイデア論を唱えたプラトン、かの有名なアレクサンドロス大王の家庭教師をしていたアリストテレスストア派創始者ゼノン、快楽主義と訳されるエピクロス派のエピクロスなどすべて上げようとすればきりがない。なぜ、古代ギリシアでこれほどまでに哲学が盛んだったのかと問われれば、彼らが暇だったからだと思う。暇といっても毎日仕事もせずに遊んでいたとかではない。ギリシアの土地は石がむき出しになっていて工作などできる土地ではない。そこで彼らは農耕による自給自足路線を捨て、かろうじて育つオリーブとブドウを片手に交易に乗り出した。狩猟採集と比べていくらか楽とはいえ農業も決して楽ではないことは農家の人の早朝から深夜に及ぶ過密スケジュールや若年層の農業離れの状況を見ればわかるだろう。しかし、交易によって他地方との物品の交流が増えるにしたがって国が豊かになる。国が豊かになれば、暮らしに余裕が出てくる。その日の暮らしさえわからない状況では生きること以外のことを考えている余裕はないが、生活が豊かになったため生きること以外も考えるようになった。そして、100人いれば100の意見が並び立つといわれるギリシア人である。哲学にとって欠かせない対話をするにはおあつらえ向きの環境だっただろう。
  • 哲学のメリット
  •  では、哲学をすることのメリットとは何であろうか。よく哲学的な問いとして「なぜ生きるのか」ということが問われるが、その問いはナンセンスだと私は思う。なぜ生きるのかという問いに対する答えはわかりきっている。私たちの両親が結婚し、子供が欲しいと望んだからである。私は「なぜ」という問いを立てるよりも「どう」について考えるほうがいいと思う。つまり、「なぜ生きるのか」よりも「どう生きるのか」である。自分が何をして生きるのかどう生きるのか。それを理解している人はあまりいないだろう。当然である。すべての人が自分がどう生きたいのかを知っていたら、2000年以上も続いてはいなかったはずである。人はどう生きるかといった問いを多くの人が考えてきた。イエスキリストも考えたし、名もなき農民だって考えたろう。しかし、今だに答えは出ていない。当たり前である。すべての人に当てはまる普遍的な答えがないからである。生き方に正しいも間違いも優劣もない。政治や宗教など高尚なことを考察することこそ、最上の生き方だという人もいるし、おいしいチーズとワインに最上の喜びを見出す人もいる。私としては、後者に同調するがそうは思わない人もいる。このようにいろいろな意見があるのが健全な姿である。誰かが言ったことに全員が同調し、異口同音に同じことを言う今の風潮は少し不自然である。この国十人十色という素敵な言葉があるではないか。哲学は自由な学問である。小難しい専門用語や論理は必要ない。必要なのは少しのだけである。
  • これからについて
 このブログ最初の記事ということで長々と哲学について説明をしたが、次からは私が個人的に日ごろ感じたことについて徒然なるままに書いていこうと思う。私自身決して頭の出来が良いほうとは言えないため、取り上げていく事柄もおのずとよく言えば身近、悪くいってしまうと低俗なものになると思う。プラトンの饗宴は面白く読めたが、ソクラテスの弁明は一応読み終えはしたが理解できたかと言われれば相当に怪しいと言わざるを得ない。しかし、私はそれでもいいと思う。高尚な論理も崇高なイデオロギーも面白い本とおいしい食べ物の前には道を譲る。それくらいの気楽さで始められる自由さが哲学にはあると思う。